薄い皮をめくる

洋楽、ジャズ、渋谷系、アニソンを好んで聴く学生の音楽レビューや日常を綴るブログ。

次の更新は何年後になりますか?

久しぶりのブログ更新をした勢いで、再び書き込んでみる。
先ほど、記事を見直してみたのだが、どうも違和感しかない。
文章は稚拙だが、破綻している訳でもないのに。

"録音された自身の声を聞いた時の気持ち悪さ"が重なった。

声は、それを発した人とそれ以外では聴こえ方が変わる。
外からのみの自分の声は本来、他者からしか聴こえない情報だ(だよね??)。
自分の声を気軽に録音できる世界になったのは、精々この70年前後だろう。
録音技術の確立自体、正味150年も経っていない。
人類史の中で考えると音を記録する、記録された音声を聞くという行為はかなりストレンジだと思う。
声を聞く行為は特に。
自分が書いた文章を読み直したり、鏡に映る自分の姿を眺めたり、
自画像を描いたり描いてもらったり。
複製技術に頼らず、自身の肉体や思想信条を客体を知覚する為の器官で認識してきた中で、
自分の声を高い解像度をもって客観的に知覚することは、録音(複製)技術以前は無かったのではないだろうか。
やまびこは一瞬だし、音量と反響が強く、しっかりと声を把握するには厳しい所がある。 
だから、録音された自身の声を聞いて妙な感情を抱くのは、遺伝子レベルで当然のことなんだ
(ごめんなさい、ほぼ口から出まかせです)。
歌手とか声優は職業柄、何度も自分の声を聞くので、その違和感にも慣れている人が多いとのこと。
遺伝子~なんて下手に口に出す物ではないなぁ…



兎に角、私にとってレポートや卒論以外の文章を第三者視点で読む行為は、非常に不自然な行為で、これまでの生活や考え方に照らしても奇妙なんだ。

これまで自分の表現物を、自主的にリリースすることなんてなかったし、したいと思ったこともない。 
音楽もエレクトーンを10年近く習っていたけど、自分の上達よりも、新しいアルバムや好きなアルバムを漁る方がずっと興味があった。

ブログは作品ではないけど、Twitterよりは敷居が高いし、文章量も膨らむ。
これまでの自分の行為の中で一番作品の発表に近い事がこの文章や、その前の文章ということになる。


そんな訳で、1人新幹線に4時間揺られており暇を持て余し過ぎたので、駄文をまた残した。最後の数文は、神保町の喫茶店で手前味噌な仕上げ。
あゝ前回の記事より酷いのだろうなぁ〜